池田晶子、若しくは中島義道病
- 病気の原因
- 症状
無気力。とりわけ、社会的行動力の欠如。他人との接触を厭うなど。
- 治療
いまのところ決定的なものはない。時間が過ぎるのを待つだけ。
というわけで、池田晶子の「41歳からの哲学」()
を読んだ。
いつものことだけれど、池田晶子の本を読んだ後は、猛烈に上記の症状が起こる。早く言うなら、ひきこもりのような。本を読んだ後、布団の上にゴロリと寝転んで、ぼうっとして天井を見上げ、考えるともなく考える。外に出たり人と喋ったりと言うことは言うまでもなく、テレビを見たりすることさえも非道く億劫になってしまう。
これはいかん、なんとかせねば、と思うのだけれど、どうにも何もかもがバカらしく見えてしまうのだ。これまで池田晶子や中島義道の本や言説に触れるたびこんな状態に何度も陥っている。やっぱりこの人たちは危険人物だなあ、と思った。
今回初めて、「ソクラテス」シリーズ以外の池田晶子の本を読んだのだが、この人、こういう書き方したら敵を作ってしょうがないだろうなぁ。「ソクラテス」シリーズと同じこといって、雰囲気も一緒なんだけど表に書いている人が出てきているのだからとんでもなく反発を覚えるわけだ。
中島義道と池田晶子の違いってなんだろう。きっと二人とも似たもの同士なんだ、ということはわかる。でも、本を読んでいるとどこか違うと思えてくる。
中島義道の本を読んでいてすぐに分るのは、「自己」ということ。何度も出てくる「自己愛」やらなんやらという言葉、彼自身は嫌でしょうがないもののようだ(あまり好きという人もいないだろうが)。その言葉が嫌いなくせに、昔の自分のことをさらしてみたりしている。これは不思議だ。
翻って、池田晶子は自己について書くにしてもとても淡白だ。ほんのちょっと顔を出せばいいほう、全く触れられないことがほとんどだ。しかし、只の勘に過ぎないが、池田晶子のような人が全く「自己」に興味が無いとは思えない。何といっても「哲学者」なのだから。達観しているならともかく、まだ流石にそこまで至ってないだろう、と思う。
となると、ワザとそう見せかけているのだろうか?なんとなくだけど、そのように思う。
ということは、池田晶子はシンプルそうに見えて、凄く計算高いのか?中島義道は、入り組んだ性格をしているように見えて、実はそこまで深くは無いのか?(これはなんだか違うように思う。彼はそこまで見越してスゴーク複雑なのではないか?買いかぶり過ぎかも)。
…なんだかわからなくなってきた。
ちゅうか、初めての日記で張り切りすぎ。